カナダでいろんな言語に囲まれる生活をする中で、使う言語が使う人の性格に及ぼす影響について考えることがしばしばあります。
例えば、友達や家族から、英語を話す時と日本語を話す時とでは違う人のようだ、と指摘されたとき。
私のパートナー(メキシコ人)が彼の母国語のスペイン語を話すとき、いつもより感情的になるなー、と気づいたとき。
はたして、人の性格は言語によって左右されるのでしょうか?もしそうなら、メキシコのスペイン語をマスターしたとき、私の性格はより感情的で情熱的になるのでしょうか?
Bilingual and Bicultural (バイリンガルとバイカルチュラル)
このトピックについて、スイスのヌーシャテル大学のグロスジーン教授(Dr.François Grosjean)が何冊か本を出版し、オンラインフォーラムにも情報を発信しています。
彼によると、バイカルチュラルというコンセプトがあり、バイリンガルの人は二つや三つの文化と共に生きてることが少なくないそうです。ただ、バイリンガルの人が必ずしもバイカルチュラルであるわけではなくて、例えば、カナダのフランス語圏にあるモントリオールで生まれ育った人たちはフランス語と英語を流暢に話すけれど、比較的同じ文化(カナダのモントリオール)にずっといるので、『バイリンガルでモノカルチュラル(一つの文化)』ということになります。逆に、アメリカで育ってイギリスに渡った人は『モノリンガル(一つの言語)でバイカルチュラル』ということになります。
バイカルチュラルの人については、大抵、下記の三つの性質を持ち合わせています。
- 二つや三つの異なる文化に触れている
- それぞれの文化特有の行動や態度や物事の価値などに適応している
- 異なる文化の側面を混ぜて生活している
こうして見ていくと、私と私のパートナーと留学生友だちも、カナダで生活する上でバイカルチュラルのカテゴリーに当てはまります。
グロスジーン教授が ”Who Am I? The identity quest of bicultural bilinguals“というコラムに書いたように、違う文化に適用していくのは容易ではありません。特に、文化によって対立した価値観があるときは大変です。
1964年に出版された古い研究ですが、研究結果に英語と日本語の価値観の違いが垣間見れます。カリフォルニア大学のエルヴィン・トリップ教授(Dr.Susan Ervin-Tripp)によって行われたこの研究では、戦後にアメリカ兵の妻としてサンフランシスコに渡り生活していた日系アメリカ人が対象となり、不完全な文章を完成させたり、与えられた単語に関わる単語を答えるなどの問題を英語と日本語で行いました。
その結果がこちら。
Task 1: 文章完成問題
家族と意見の食い違いが生じたとき・・・
日本語 『それはとても不幸なことです。』
英語 『私のやりたいようにやります。』(”I do what I want. “)
本当の友達は・・・
日本語 『助け合うべきです。』
英語 『すごく正直でいるべきです。』(”be very frank.”)
回答者は同じでありながら、日本語と英語では回答が異なっています。
ここで重要なのは、回答者のコアな部分にある意図は異なっていない可能性があることです。具体的に、最初の問では『それはとても不幸なことです』と答えておきながら、『周りの意見に従います』とは言っていません。ということは、『私のやりたいように』やるという意思は変わらないということです。次の問では、正直でいること イコール 助けることになるのなら、『助け合う』という意図は同じです。
もう一つ面白い点は、回答がアメリカと日本で文化的に適切な行動を象徴している点です。日本はどちらかと言えば受け身で個々人よりも集団行動を重んじる傾向がありますが、アメリカは個人主義で、友人関係では包み隠さず正直な姿勢でいることが大切である傾向があります。
Task 2: 関連語問題
お正月
日本語 | 餅, 着物、七草、みかん、羽つき、友人
英語 | 新しい服、パーティ、祝日(”new cloths”, “party”, “holidays”)
お茶
日本語 | 受け皿、緑色、お茶菓子、茶道
英語 | ティーポット、ケトル、パーティ、緑茶、レモン、砂糖、クッキー(”teapot”, “kettle”, “party”, “green tea”, “lemon”, “sugar”, “cookie”)
関連語問題では、その単語を言う言語によって連想されるものが変わってきています。特に、単語がひとつ文化でのみ重要な意味を持つ場合(お正月など)連想されるものに大きな違いが出てきています。お茶の場合は、日本語だと緑茶が主に連想されるのに対して、”
Tea”と言われると確かにレモンなど紅茶に合わせるものも思い浮かびます。
Task 番外編: 関連語問題 メキシコのスペイン語と英語
スペイン語と英語との間にも文化的違いが現れるのかどうか検証するために、メキシコ出身のパートナーに6つの単語に関わる単語を、まずは英語で、その次の日にスペイン語で書いてもらいました。先入観の影響を防ぐために、この実験の趣旨は教えてありません。
日本語訳 (実際に使われた英語/スペイン語単語)
ねずみ (MOUSE / ratón)
英語 | 猫、ジェリー、チーズ
スペイン語 | mouse, 耳, チーズ
幸せ(HAPINESS / felicidad)
英語 | 家族、飛丸(うちの犬)、食べ物
スペイン語 | 家族、眠ること、タコス
人生(LIFE / vida)
英語 | 半分、 “it’s my…” (Bon Joviの歌の一部)
スペイン語 | “vivir la…“(スペイン語の歌の一部), 飛丸
食べ物(FOOD / comida)
英語 | おいしい, タコス
スペイン語 | 幸せ、家族、再会の集い
黄色(YELLOW / amarillo)
英語 | 鳥、太陽、食べ物
スペイン語 | 食べ物、マクドナルド、鶏・ひよこ
肉(MEAT / carne)
英語 | 食べ物、 ルフィー(ワンピースの。)、 メキシコ
スペイン語 | ルフィー、タコス、アサダ(carne asadaというメキシコ料理の名前の一部)、パーティ
日本語 vs 英語の比較と比べると、北メキシコ出身の彼が連想する単語は英語でもスペイン語(母国語)でもほぼ同じです。メキシコの中でもアメリカに近い州の出身なので、アメリカの文化が彼の出身地の文化に与えた影響が大きいことがその理由のひとつかもしれません。ひとつ違いがあるとすれば、『再会』や『パーティ』など社交的な単語がスペイン語のほうに多いということです。何かと集まって飲んで食べてお祝いをする陽気なメキシコの文化が少し現れているのかもしれません。
結論・行動や姿勢は言語によって左右されても性格(根底にある意思)は変わらない
多国語をしゃべれるからといって多重人格であるわけではない。確かにそうですね。
それぞれの言語が属する文化に適応するように、私達は言語だけでなく、行動も変えなければいけないことが多々あります。特に大人になってからは、適応する課程は容易ではないですし時間もかかるかもしれません。でも、少しずつでも私達の多くは、違う文化を自分の生活の中に取り入れながら徐々に自分のものにして生活しています。
私も、カナダに来てから2年くらいたったとき、自己認識の危機のようなものに襲われました。英語をもっと上手く喋って周りに理解して受け入れてもらえるように、ひたすら周りのカナダ人のように振る舞おうとしていました。科学のクラスでだいたい留学生は私一人だったので、孤独な気持ちはありましたが英語は上達しました。現地の文化もだいぶ理解できました。でも、英語を喋っているときと日本語を喋る自分との差に気づいて、どちらが本当の自分なんだろう、と悩みました。カナダと日本ではもちろん文化が違うので、言動に違いがあるのは当たり前なのですが、その時は、どちらか選ばなきゃいけないような強迫観念にとらわれていました。
でも今振り返ってみると、それぞれの文化に適応していく課程を経て今まで知らなかった考え方、物の見方や、より良く自分を表現する方法、そして、持っている国籍が自分を定義するわけではないことを学びました。
今現在、パートナーがメキシコ人なのでメキシコで話されているスペイン語をちょくちょく勉強しています。メキシコの文化は日本と相反するところがけっこうあります。例えば・・・
- 親しくなりたい意思表示として、初対面の人にニックネームをつける(日本ではかなり失礼)
- 家族の集まり(誕生日会など)には親戚一同集まる(日本は核家族化が著しい)
いつかスペイン語がペラペラになった暁には、今では抵抗がある上記のこともナチュラルにこなして、メキシコ人っぽくなれるかもしれません。
参照資料 & 使わせて頂いた写真(お茶の写真)のcredit
Ervin, S. (1964). An analysis of the interaction of language, topic, and listener. In John Gumperz and Dell Hymes (eds.), The Ethnography of Communication, special issue of American Anthropologist, 66, Part 2, 86-102.